2017/02/16

セノグラフィーってなに?<歴史2>

『牡牛の神と芸能を巡って』

前回、ギリシャ神話にでてくる最初の建築家ダイダロスについて触れた。
彼が発明し製作したものに迷宮があり、それから抜け出すためのイカロスの翼があったことも。
今回はダイダロスと牡牛の神と芸術の関わりを追ってみたい。

<不完全な造物主>
ダイダロスは造物主(デミウルゴス)の一人でなんでも創り出してしまうのだが、なにかちょっと失敗がつきまとう。
クレタ島のミノス王の妻パーシパエが海の神ポセイドンの策略で生け贄の牛との不倫の末つくってしまった息子ミノタウロス。彼は半分牛で半分人間の怪物(キメラ)であった。(1)
(1)ミノタウロスと戦うテセウス(Wikipedia)
ミノス王がミノタウロスを閉じ込めるためダイダロスに迷宮の建造を依頼する。
ダイダロスは完璧な迷宮をつくるのだが、1つだけそれには失敗があった。
設計者であるダイダロスとその息子イカロスがその迷宮の出口を知っていたのである。その為ダイダロスとイカロスは迷宮に閉じ込められるてしまう。
そこからはかの有名なイカロスの翼の神話になる。閉じ込められた2人だがなんでも創り出してしまうダイダロス、脱出不可能の迷宮だが空への道は開かれている。翼をつくって一旦は飛び立つのだが太陽に近づきすぎてロウで出来ていた翼は解けてしまいイカロスは墜落する。

ダイダロス。彼はなんでも創り出してしまうが、それはどこか不完全なのだ。そんなダイダロスは前回見てきたように、原初のセノグラフィーであるコーラ=舞踏用の空間も創り出している。
ダイダロスを介して迷宮コーラ=舞踏用の空間は接点を持つ。そしてコーラ=原初のセノグラフィー=パフォーミングアートの空間は古代ギリシャの遺跡が語るように神殿と密接な関係を持っている。

<迷宮とコーラと神殿>
ここで不思議な関係がみえてくる。
よく建築的な主題として対比される迷宮神殿。ディオニソス的なものとアポロン的なものとの対比として提示される2つの世界観。片方は謎で欲望と矛盾にみち不明解。一方は整然とし理知的で明解なロジックの世界。
ここにもう1つの空間・コーラ(舞踏用の場)を加えてみる。迷宮コーラ神殿。
するとコーラ迷宮神殿の二項対立を仲介するような働きをしないだろうか。

<アリアドネーのためのコーラ>
神話ではミノタウロスを倒したアテナイの英雄テセウスを赤い糸で迷宮から脱出させたのはミノス王の娘アリアドネーで、ダイダロスが設計した舞踏用の空間とはアリアドネーの舞踏の為の空間であったという。

前回触れたように、ギリシャ劇場はかならず神殿とセットであった。そしてコーラと迷宮はともになんでも創り出してしまうが不完全な造物主(デミウルゴス)ダイダロスによって創り出された。

<3つの空間の3人の登場人>
この3つの空間に登場人物をあてはめてみる。人間と牡牛とのキメラであるミノタウロス迷宮にいる。神・ポセイドンあるいは、女神アテネとその使者としての英雄テセウス神殿に。そしてセノグラフィーの原初=コーラにはパフォーマーである人間の女性アリアドネー=コロスがいる。

ミノタウロスとテセウスのように2項対立の構図をとらない不思議な3角形の図式(迷宮ーコーラー神殿)として、ダイダロスが創り出した原初のセノグラフィーであるコーラを通してアリアドネーの舞踏=パフォーミングアートがこの対立に介在しているのだ。
牡牛と人間のキメラであるミノタウロスがアートと関わっているのである。

<ミノタウロスのイメージとアート>
ピカソはミノタウロスのイメージを自分と重ね何度も描いている。
荒ぶる欲望をぶつけ吐き出し破壊すると同時に、種をまき生産し豊穣と豊かさを与える両義的(アンビバレント)な存在としてのミノタウロス。
ここでもまた違う形でだが、ミノタウロスのイメージがアートと関わっている。(2)
(2) http://blog-imgs-43.fc2.com/1/5/g/15gym/Picasso41.jpgより

祇園祭りと牛頭天王
牡牛の神とアートが関わっている例は日本にもある。
ここでいきなり日本の芸能空間に飛ぶが、千年以上つづく京都祇園祭り(3)の祭神は牛頭天王である。(4)
(3)祇園御霊会細記 鈴鹿文庫HPより
(4)牛頭天王坐像 堺市 中仙寺

牛頭天王はインドから入ってきた外来神だが日本ではスサノオの尊と習合している。やはり、破壊と豊穣の神である。(5)
(5)牛頭天王とスサノオの尊の習合神 祇園大明神(Wikipedia)
牛の頭をもったキメラの源流を追うと、インドの踊りの神ナタラージャに行きつく、ナタラージャは炎の中で踊る神だ。破壊と生産の象徴である炎、その中で踊り続けるナタラージャ。(6)
ナタラージャは世界の創造と破壊の神シヴァ神の別の姿(キメラ)でもある。
(6)ナタラージャとして踊っているシヴァ神(Wikipedia)
燃えあがる炎の鋭角と牡牛の角と祇園祭りの山鉾の尖った鉾(ほこ)にも注目。

ミノタウロスー牛頭天王ーナタラージャーシヴァ神。この繋がりはなんだろうか。
どれも生産、豊穣をもたらす種、力を持つとともに破壊、破滅を引き起こす両義的な存在である。人はこのような両義的な存在となんとかコミュニケーションを取ろうとパフォーミングアートを介在させてきたのではないか。

人間はアートというアウトプットの手法を両義的な神と対話する手段として古くから用いてきた。
二項対立を仲介する為に、パフォーマンスとしてコーラで繰り広げられる舞踏。それは弁証法的に世界を捉えるロジックがつくり出す世界認識とは位相の異なる、身体と場を伴ったもう1つの世界との交わり方である。

<レヴィ・ストロース『野生の思考』>
文化人類学者レヴィ・ストロースは『野生の思考』の中で、神話的思考と科学的思考を対比し、アートの本質とはなにかを紐解いてみせる。

『野生の思考』より引用
『美術(芸術)が科学的認識と神話的呪術的思考の中間にはいることを簡単に述べておこう。周知のごとく、芸術家は科学者とブリコロルール(器用人)の両面をもっている。職人的手段を用いて彼はあるオブジェを作り上げるが、それは同時に認識の対象(オブジェ)である。(ブリコルールはものと『語る』だけでなく、ものを使って『語る』。)


さきに記したごとく、科学者とブリコルールの相違は、手段と目的に関して、出来事と構造に与える機能が逆になることである。科学者が構造を用いて出来事を作る(世界を変える)のに対し、ブリコルールは出来事を用いて構造を作る。』


レヴィ・ストロースが語るブリコルールのイメージこそ、原初的技術・アルキテクトンを使い自由自在にあらゆる物を創造するが、どこか不完全な造物主・ダイダロスそのものではないか。
そして人は芸術という科学的思考と神話的呪術的思考の両側面をもつ方法で、不確かな世界と関わってきたのだではないか。

<貞観の大地震>
祇園祭りに話を戻すと、祭りの起源は今から千年以上前、貞観の時代の大災害によって引き起こされた飢饉、疫病による大量の死者への弔いと疫病消除を願ったためであったという。古い話のようで実は、災害という観点ではまったくもって過去の話としてはかたづけられない。なぜなら、貞観といえば2011年3月11日に発生した東日本大震災によってふたたび知られるようになった貞観の大地震の時代である。

科学者はその土地が一番地震の確率が低いという理由で原発を建設した。しかし人々は1000年前の大地震の記憶を、その土地が危険であるという記憶を祭りというアートの方法で継承し続けてきていたのだ。
祭り本来の意味を忘れ、神話的思考を捨て科学万能の時代を生きる私たち。

<科学とアートのおもしろい関係>
科学的データに基づき安全であるはずとされた土地に原発をつくった今の時代に対して、千年以上も前の人々は祭りというパフォーミングアートの手法でその記憶を末代まで伝えようとした。もし、科学者がその祭りの起源を思い、なぜそれが廃れる事なく今も行われているかという事に憶いをめぐらしていたら、、。
アートと科学の思考はもう少し面白い関係になるのにと思う。

翻って、じゃあ私たちはあの3.11の記憶を千年後の人々にどのような形で伝え続けていけるのだろうか?とも思う。千年前の人々が行ったように祭りにするのか、科学的データをアーカイブにしておくのか、、。とても難しい問題だ。

ただ、毎年祇園祭りの時期になると、3.11の経験以降この事を考えるようになっている自分がいるのは確かだ。災害と祭り=超越的なるものとパフォーミングアート。ここでもこの2つはやはり関係している。


レヴィ・ストロースが語るように科学と神話の両側面をもったアートの思考でもう一度世界を見つめなおすことはできないだろうか?




参考文献
レヴィ・ストロース『野生の思考』
磯崎 新『造物主義論ーデミウルゴモルフィスム』
長谷川 『神殿か獄舎か』